夕凪の街桜の国
読了。
『夕凪の街』が昭和30年の広島。その後日譚の『桜の国(一)』が昭和62年、『桜の国(二)』が平成16年の東京が舞台。
- 作者: こうの史代
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2004/10/12
- メディア: コミック
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今はきれいな芝生で整備され跡形もなくなっているが、皆実の家があった川辺のバラックは、子供の頃の記憶に残っている。紙屋町へ母と買い物に行く時、電車の窓からいつも見えていた風景だ。
あの頃は、戦後がまだ身近にあった。当時住んでいた借家はふすまが動かないところがあって、原爆の爆風で家が歪んだためと言う事だった。また、自分自身の身内には被爆者がいないのだが、両親は子供の時、山の向こうからの原爆の閃光やキノコ雲を見ている。
広島で育って、いわゆる平和教育を受けている。毎年同じような作文を書かされるのにうんざりして、中学の時夏休み帳の原爆の感想文で、ワザと被害者視点で書かかず、先生に書き直しさせられた前科がある(苦笑)。自分の頃の平和教育は、被害者前面に押し出していたところがあったのでは。
今となっては、被害者には違いないけど、なぜ被害者にならなければならなかったのか? 被爆に対しては被害者であったが、同時にある国の人々にとっての加害者に、加担していたのではないか? とか複雑な視点が必要かなと思う。
そういえば今年、平和公園の慰霊碑の『あやまち』と言う言葉が(自虐史観で)気に入らない、と削った輩がいましたね〜。
ちょうどこの作品、週刊金曜日9月2日号、山口泉氏の書評『読み方注意!』にも取り上げられている。
本書の抱え持つ脱政治性ともいうべき傾向が、事柄のいっさいを”無謬の「桜の国」の美しい悲劇”へと変質させかねないことを。私は危ぶむ。そして。痛ましくも口当たりの良い物語の”受け容れられやすさ”が、「被爆」を単に”日本人の占有する不幸”にのみ矮小化し、さらには新しいナショナリズムに回収される迷路へと誘う場合もありうることを、私は恐れる。
この作品が、作者の意図しないところで、利用される時代がきませんように(祈)